コラム

【はしもとのあしあと】Vol.19 人との間をならしてくれる「笑い」が好きという話

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あけましておめでとうございます。
こちらのコラムを書いている今は年末なうでございます!

さて、私は誰かが爆笑している様子を見たり、そこに居合わせること、誰かを笑わせることが大変好きです。なぜ好きなのか、というのを書いていきたいと思います。

息子の笑いのポテンシャルが爆発し始めている

昨年12月半ば、我が家の子どもたちが通っているこども園の発表会がありました。
劇や歌などをクラスごとに発表するのですが、2歳児クラスの息子がその本領を存分に発揮していました。

息子のクラスの演技は、先生に役名を呼ばれたら順番に舞台に出てくるというもなのですが、舞台袖ではクラスのしっかり者の女の子と先生に、両サイドからがっつり手をつないでもらって変なタイミングで舞台に飛び出さないよう調整してもらっていました。

これだけでも彼の園生活が伺えて笑えるのですが、いざ舞台に出てきたら完全にオンステージ。セリフを言うタイミングをずらすしたり暴れたりといった、全体を壊すようなことやらかさないのですが、飛んだり跳ねたりして、見ている親子の爆笑を誘っていました。

ちなみに先生たちは「やはりやったな」という凍てつき気味の表情。
先生、いつもすみませんありがとうございます

笑いには、間をならす約割がある気がする

自分の行動で誰かが楽しんだり笑っていることに喜びを覚えた様子の息子を見て、なぜ私は笑うことが好きになったかを思い出しました。

「笑い」はそこに居合わせる人の属性や役割といった垣根を軽々と超えて、良い意味でならす気がするのですが、それがとても気持ちが良いからです。

小さい頃、祖父母、父母、兄と私という6人家族で住んでいました。
平日の日中、兄と私は小学校や幼稚園に行き、両親はそれぞれ仕事へ、祖父母は基本的に家で過ごします。日中どこで・誰と過ごしているか、これまでどう生きてきたか、それぞれの世代。そういった点が各々異なる中で、帰宅が遅い父以外はみんなで夕飯を食べていました。
学校であったアレコレ、祖父母や母が近所の人とこんな話をしてどう考えたという話、昔はこんなことがあった、などなど、家族がそれぞれ話をしていました。

各人おしゃべり大好きという家族でしたが、それでも、私が友人と経験したいろいろな話を、私の通う小学校に行ったことや、私の友人に会ったことがない祖父母が理解できるかというと、そうではありません。だから話は弾んでいたけれど、感じていることを共有できていたかどうかはよく分かりませんでした。逆もまた然り。

笑うポイントというのも各人微妙に違うわけですが、誰かの笑いに反応してみんなで笑っていると、それだけでとても楽しくなってくるし、「じいちゃんの今言った言葉、意味がよく分からないなあ」という時でも、それが理解できたかどうかはあまり関係なく、一緒になって笑うことで大体の意味が分かり合えたり、家族の仲がつながるものであったと思います。

そしてめちゃくちゃ笑うと、とにかく楽しい。ちょっと重たかった気持ちも軽くなったりします。
「笑い」にはそうした圧倒的で前向きなパワーがあるところも、とても好きなのです。

与えられた時間は平等、それを良く過ごしたい

誰かと一緒に笑うことは、相手との距離が縮まる、というより、人間関係を正常な位置にならしてくれる感覚があります。
社会にいると、親と子、大人と子ども、男性と女性、古参と新人、という属性や役割を、自分に選択できる・できないに関わらず与えられますが、それらを取っ払って、「楽しい」「面白い」という、より単純で明るい感情を共有できるというところが、ポイントなのかもしれないと思います。

笑うこと・笑わせることよりも、宿題や家を掃除することに時間を充てるべき?と思う時もありますが、笑うことは、人生に無くてはならない時間です。

みんな等しく124時間あって、誰でもいつか、生きることに終わりが来ます。それなら持っている時間を少しでも楽しく充足して過ごすこと、時間を上質にすること、そうしたいと望むことは素晴らしいことだし、贅沢なことでも、変に豪勢なことでもないんだということを思います。

これは、個人事業主になり自分で自分にフォーカスする重要性が身に沁みて分かってきたからこそ、感じることでもあると思います。

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