コラム

【はしもとのあしあと】Vol.30 何者にならずともよいという話

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年の瀬ですね。今年は本当にあっという間でした。

ついに30回目を迎えた「はしもとのあしあと」も、ここらへんで一区切り。今回は、私は素のままでOKだと実感できるようになってきたというお話です。

真実を見つけるために、成長し続ける人でありたい

子どもの頃は、大人になったら真実に辿り着くと信じて生きていました。

家族や友達、またはテレビやラジオの中で話している知らない人。そうした、私の周りにいるさまざまな人が、めいめいに意見を述べているけれど、何が本当に正しい情報なのかは誰にも分からず、そのことで悲しい事件が起きたり、人同士の間に疑惑が生まれたり、みんなが困る事態が生まれているように私には見えました。
一方、気持ちよく生きている人もいるので、その状況から考えるに世の中にはおそらく「答え」があり、それを明らかにして伝えていけば、より多くの人が気持ちよく過ごす時間を増やすことができるのではないかと考えました。

「答え」を見つけやすくするため、日々のさまざまな出来事から少しでも多くのことを学び分析し、学力の向上よりも、人間として成長し続ける人であろうと思っていました。
正しいことを選択できるようになりたいし真実を見つけたい。
大きくなったらより、世の中の仕組みがわかるはず。最短で答えを見つけていきたいと、考えていました。

答えなんて無い

ところが、大人になったら真実に辿り着くどころか、答えは人の数だけあることが分かりました。子どもの頃「社会や世間、人はこういうもの」という明確なイメージがありましたが、大人になって見えてきた社会・世間・人は、とてもぼんやりして、形が頻繁に変わるものでした。

さらに子育てによって、過去の出来事から分析して対処しようとしても想定外のことがいくらでも起きる毎日を送ることになり、答えを見つけられる人であろうと、人間として成長し続ける人であろうとしてきた私は、そうできない自分をたくさん責めてきました。「母として」「妻として」「人として」という役割に自分を当てはめることは、この世の中がどうなっているのかという答えを見つけるために最適な方法であるとも考えていますが、この作業は思っていた以上に「私個人」を、自分自身を苦しめるものでもありました。

誰も私に、何者かであることを求めていない

役に扮して周りを観察し答えを見つけようとするよりも、そもそも自分がどんな人間なのかを内省しまずは愛することを基本として生活する方が私個人としては気持ちよく過ごせると、ここ12年で気がつきました。

つい最近も、それを実感する出来事がありました。

誰も私に、妻であること、良き人であること、母であることを求めていないし、期待していない。これは悲しいことではなく、他人からの期待値を設定しているのは私で、私が勝手に振り回されているだけなんだなと気づきました。

人は何に縛られるものでもない…私も、あなたも

私はただの人で、真実の答えが見つかろうと見つかるまいと、翌朝目が覚めればまた生きていく。シンプルに、そういう仕組みの中に生きているだけなんだなと感じます。

周りの人達のあらゆる反応や言葉を自分なりに分析しながら生きてきましたが、そもそも、周りにどう思われるかで生き方を決めていたらキリが無いし、自分がその必要性を感じないなら、誰かのために何者かになる必要は特に無いんだと感じます。

周囲と合わせながら役割を果たしていくことの方が、自分の思いを大切にすることよりも大事と思って生きることは「答え」から遠いような気がしています。個人的にはですが。

どちらも大事だし、後者の方がどちらかといえば大事だということを、子どもたちには言葉で伝えるとともに、振る舞いでも伝えていきたいと、思っています。

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