Kanokoでコラムを書くようになってから、「言葉にして誰かに伝える勇気が出る日は、はたして来るのだろうか」と、思っていた題材があります。
それは、娘に対して怒りすぎてしまうことがあるということ。
叱るのではなく、怒る。感情的に言ってしまうのです。
これは育児に限らず、誰しも少なからず経験があることだとは思うのですが、でも私の中では、どうしたらいいのか分からない、誰かには話しにくい、大人として恥ずかしい、自分の中の「問題」として認識してきたことです。
ここ最近でずいぶんと考えがまとまり、言葉として形になってきたので、自分を受け入れる過程として、書き出してみることにします。
子どもの自由奔放さが苦手
娘が産まれるまで、私は自分より年下の人と接することがあまり得意ではありませんでした。
特に、小さな子ども。自分と年の離れた人間が、何をどんな風に考えて行動するものなのか想像がつかず、接し方がわからなかったのです。
そして子どもが、持てるパワーを惜しみなく使い、自由に自分自身を発散していく性質が苦手でした。
いま思うと、何にも、誰にも縛られないところが、羨ましかったのだと思います。「そんな風にいられたら、私だって楽だったよな」と。
子どもがいる生活を送る今では、楽しくコミュニケーションが取れるようになりましたし、それこそ、地球上の子どもが全員自分の子なんじゃないか?というくらいに、子どもがかわいいと思えるようになりましたが、子どもの自由奔放さは相変わらず好きにはなれませんでした。
「なんで私ばっかりガマンしているの!?」と怒ってしまう
「娘に対して怒ってしまう」というのが具体的にどういうことかというと、
「どうして私はガマンしているのに、あなたはガマンできないの?」
「どうして親だからって、あなたを育てようと、心を砕いてがんばらないといけないの?」
というような主旨で、声を荒げて文句を言ってしまう、ということです。
自分に余裕が無い時は、特に。
例えば・・
↑この後、めっちゃキレました。「自由すぎか!!!!!!出したもん食べろやー!!!!」と・・。
この例はまだ軽い方です。
全く冷静になれず、怒る気持ちと勢いそのままを、娘にぶつけてしまいます。
この状況に、毎回娘は大泣き、夫は言葉を失い、私は「こんな親で、こんな自分で、本当に最低最悪だ・・」と、罪悪感と恥ずかしさに消耗。
そんな私を夫が責めないでいてくれたことで、少しずつでもなんとか自分を振り返ることができ、怒りの根本に「ガマンしている」「なんで私ばっかり」という感情が強くあることが、分かってきました。
思い返すと下の子の妊娠中、私は娘に対し、かなりガマンをしていました。
2歳だったので自己主張がぐんと伸び、つわりで体調が悪く起き上がれないのに「遊んでくれないとヤダ!」と泣いたり、臨月でお腹が重いのにベビーカーに乗ってくれず、抱っこで保育園の送り迎えをしたり。
まだ小さいからしょうがないよね、と思う余裕は1ミリもなく、「私の気持ちにもなってくれよ・・」と何度も泣きながら思いました。娘を恨むような気持ちになったことも、数知れず。
だからといって、相手にできん!と放っておくと、娘が泣き叫んでさらに大変なことになるので、一番スムーズに日々を過ごすために、とにかくガマンして付き合っていました。
娘を怒ってしまう原因が妊娠中のガマンだとすれば、下の子が生まれたタイミングや成長の過程で、怒りがおさまっても良いような気がします。
しかしそれどころか、こうした妊娠中のアレコレが引き金になって怒りの蓋を開けてしまったような感じで、その後も収束することがなく、なにかの拍子に爆発してしまっていました。
娘に怒っているのは、おそらく、子どものときの私
夫にも何度か、「いったい何に対してそんなに怒っているの?」と言われました。
冷静に考えて見ると・・・私にもよくわかりませんでした。
自己主張する娘を見ると、娘を大事にすべきだと思う私がいると同時に、その子どもらしい自由奔放さに納得できない私もいて、頭の中で矛盾が発生します。
「娘は大事、娘の気持ちや振る舞いを尊重したり、肯定するのは当然」
「こんなに自由に振る舞ってて、よく周りに許されるよね、受け入れてもらえるよね。ずるくない?」
イラストの活動を通じ、「自分で自分を大切にする」ことを意識するようになったので余計に、後者の気持ちを放置しておくことができなくなり、矛盾が強まっていきました。
そのうちに、「怒っているときの私って、子どもみたいだな」と思うように。
ただ、怒りを発散している状態。娘と同い年か少し年上のお姉ちゃんが、友だちや妹の粗を見つけて責めるような、それに近い・・
そう気づいたとき、怒っているのは、いまここにいる大人の私ではなく、私の中にいる「子ども時代の私」なのではないか?という考えに行き着きました。
子どものときの私が、目の前の「自由な子ども」を羨んで、ずるいと妬んで、怒りを感じている。
「いいなあ、何も気しなくて済んでて」
「私なんか、いろんな人の目の中で、がんばってて、大変なのに」と。
自由にのびのび過ごす友だちを羨んだ子ども時代
自由な子どもを羨むようになった原体験がありました。今でもよく覚えているので、強烈なできごとだったのだと思います。
幼稚園の年長クラスの時に父の転勤で引っ越しをし、卒園までの半年間だけ、新しい幼稚園に通い始めたときのことです。
体操服が、一人だけあずき色で、めちゃくちゃ目立つ。
みんながこっちを見て、何かざわざわ言っている。
他人の目に異質と映ってしまったら、自分がどう思っているかに関係なく「なんか変なの」と大勢に思われ、浮いてしまうんだ、と怖くなりました。
先生たちも前の園より厳しく、どう振る舞うとどう見られるのか?というパターンを把握し、受け入れられる行動をしなければ、先生から嫌われて私は1人になってしまう…と、気を遣っていた記憶があります。
6歳の私は、新しい幼稚園という「社会」の中に、自分の居場所を確保しようと必死。
自由に安心して過ごす在園の子たちが羨ましく、「私の気も知らないで」と思っていました。
小学校以降は転勤もなく、こうした必死さは薄れましたが、クラブ活動などの新しい場に入るときは、周りの目から見てよしとされる振る舞い方で行動することを真っ先に心がけ、空気を読むことが得意になりました。
その上、家族や友だちが仲良くしていたり、みんなで笑っている様子を見るのが好きだったので、亀裂が入りそうなときに間を取り持つことや、全体の雰囲気を乱さないことに、使命感さえ持っていました。
私にとっては、自分で自分をどう思うかよりも、ほかの誰かが自分をどう思うかがとても大事。
「だいたい世間の人ってこう思うもの」というのを把握して動き、なるべく大勢の他人に「良い人」と思われておくことを、行動の軸としていました。
おかげさまで目立たなくて楽でしたが、自分の思いに素直でいられる人を見ると、「いいなあ。私は何でこんなに人の目を気にしてしまうんだろう」とも思っていました。
私がガマンしていることって何?
育児では、
「他人優先で、自分の気持ちは脇に置いておいておこう」
「私は親だから、自分がどう思うかは抜きで、娘に寄り添ってあげなければ」
と、自分の気持ちを無視してやり過ごすには、関わる時間が長すぎました。
次第に、娘のために自分の気持ちを脇に置いておくという行為が、「ガマン」となっていったのだと思います。
「のびのびしていていいね、と思うのが大人の役目」だから、そういう自分であろうと思う反面、「のびのびしていられていいね、私だってできるならそうしたかったよ」とストレスを感じる自分もいます。
すると、「受け入れられないなんて、大人としてどうなの?」と、頭の中の「世間一般」からダメ出しが飛んできて、自分の中のいろいろな意見に板挟みになった結果、「なんで私ばっかりこんなにガマンしたり大変な思いしなきゃいけないの!勘弁して!」と爆発してしまう、という流れで、娘を怒ってしまうのではないか?と、分析しました。
最近は怒ることが減った
こうして、私が娘に怒ってしまう理由がだいたい見えてきました。
・子どもが自由奔放でいられることを、羨ましく思っている
・本当かどうか分からない他人の目を気にして、羨んでいる自分の気持ちを無視しようとしてきた
・私自身を大事にすることを意識できるようになったがゆえに、羨ましさを押し隠すことに違和感が湧き、しかし子どもを肯定できないなんてダメな親という思い込みも強く、耐えきれなくなって、羨む対象である娘に八つ当たりしてしまう
こうした傾向に陥るのは、小さいころの体験や積み重ねがもとになっていることも分かりました。
もっといろいろとあるのかもしれませんが、今のところはこの理解が、一番しっくりきています。
仕組みが紐解けたことで、以前に比べ、怒ることは減ったように思います。
「他人の目よりも、自分がどう考えるかが大事。怒ることは私の本意か?」
「こんな風に怒っても誰も幸せにならない」
など、止められないほどの怒りに発展する前に、冷静に考える余地を作れるようになってきました。
何より一番効いたのは、成長に伴い、より詳細に娘の気持ちが分かるようになってきたこと。
このことで、子ども時代の自分のストレスに、私自身が寄り添うことができるようになりました。
私は、私の中の他人(=世間からの目)が求める「しかるべき親」になろうとするよりも、隣りにいる・受け入れる人であろうとする方が、子どもや自分自身と自然な距離で過ごせるのかもしれません。
親って、こういうもの。
大人って、こうすべきもの。
無理やりに答えを明らかにして、そこに合わせようとする自分もいるけれど、世間の目と、現実いる自分がどう感じるかは別の話で、そこの差異は別にNGでもなんでもなく、受け入れていいことを学びました。
そうした「自分の等身大」をスタートに、学び感じて形成していくことで、親というか、子どもが信頼できる人になることができるのかな・・と、思います。育児だけでなく、仕事や自分の生き方など、大事にしたいと思うものについては、特に。
この先もバランスが崩れることがあるかもしれませんが、娘や自分や夫を傷つけてしまうようなやり方ではなく、心地よくいられる思考法や対処法を、考え続けていきたいです。